連邦とは?/ アットローン
[ 941] renpou
[引用サイト] http://renpou.com/cgi-bin/news/index.html
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休みの日にはあっちへフラフラ、こっちへフラフラする日が減りつつある昨今に、電話がたまにあったとすれば「プロバイダ変更したら、Winnyが使えねぇ」とか「BitTrentoって、洋楽が沢山落とせるってホント?」とか、「Cabosっテドウ?」などと、コピー好きのコピー好きによるコピーの為インターネット質問が掛かってくるので、当然至極速攻で「パードン?」と聞きたい衝動駆られたりしますが、そんな事をしてしまえば少ない知人が益々減ってはしまう場合があるので、とりあえず場合によっては「設定しにいきますよ、食事くらいはおごってくださいね」と、たまの休日に一人で足労してみたり。そんな一軒で「Winnyが使用できる設定」をしたついでに、しつこいくらいに「ダウンロードしたデータをダブルクリックなんかしないで、とりあえずアンチウィルスソフトのAvast!でウィルス除去をしてから、右クリックから解凍してね。あと責任は一切追わないからよろしくお願いします」と、ノンサポートを机をドンドンたたきながら、まるで青年が憤りをテレビ番組で主張をするかのようにアピールして帰宅。本当にサポートする気は微塵もございませんでした。で、案の定「次の日」に「ウィルスに掛かったみたい」という悲痛な魂の叫びの電話を受けるわけで、その魂の叫びはボノやエッジほどに魅力がない、未映像化&未音源化な身のない話な訳で、とりあえず聞いてみたら案の定「lzhファイルをダブルクリックしたらウィルスに掛かったみたい」などと、いつの話をしているんだこのバカチンがとか思ったりしちゃった訳だけれども、話を聞いたらマジその場で地獄に落ちろと思ったのです。「Lzhファイルをダブルクリックしたらウィルスに掛かったらしい。Yahooメール(ウェブメール)でいきなり違う人にメールを送っちゃった」それ、絶対に酔っ払ってアドレス帳の送信先を間違えただけだと思いますよ。私。という事で、4年くらい前からWinnyをやっている方ならば「警戒している場合が多い」気がしないでもない圧縮形式「Lzh(Lha)」を操作するDLLファイル「Unlha32.DLL)」の最新バージョンが公開されました。こちらのソフトウェアの特徴は「■LZHファイルを圧縮したり解凍したりする際に必要な場合が多い(ファイル操作)、■このソフトウェアをシステムに導入しないと全ての機能が使えないソフトウェアが幾つか存在する、■何気にsystem32フォルダやsystemフォルダにインストールしている場合が多い」という点でしょう。今回のバージョンアップでは●Ver 2.63 以降において, ヘッダサイズ調整のダミーデータが付加されたヘッダの CRC 計算が正しく行われていなかったバグを修正しました。 となっています。そんな私の知る限り、これからP2Pをはじめようという方々は「自分はウィルスに掛からない」などと、絶対に癌にかからないと信じて疑わない健康ジジイのような奇妙奇天烈な自信を持っている気がするが、その手の方々のPCを数本のソフトでスキャンしてみると、J-WORDが入っていたり、DAEMON TOOLSの強制ツールバーが入っていたり、案の定「スパイウェア」がゴッソリ検出されたり、半年近くもアンチウィルスの定義ファイルが上がっていないなぁ。。。。と思って完全スキャンをしたら「既にウィルスに感染済み」であったり。ま、P2P技術を利用した共有ソフトウェアを使用しているか他はご注意を。そんな訳で、「Lha」と聞くと「象のアイコンだっけ?確か」と言ってしまう元Macユーザーな方や、昔はUnlha32が更新される都度にダウンロードしていた「Raruty」世代な方、最近はめっきりアーカイバが搭載している「自動DLLダウンロード機能にお世話になりっぱなし」な事から、「Unlha32.DLL」を公開している「Micco's Home page」さんのトップページをめっきりさっぱりチェックしていない・・・・という方などは、こちらのソフトの最新版をダウンロードしてみてはいかがでは。「ルパン四世」さん、掲示板での情報ありがとうございます。 数年前にセガとフェラーリ社の契約が切れた事より、コンシューマー機に移植された「アウトラン2」が不可能となり、それを知った海外ゲームを扱うショップの大半は、店頭のポップに「ライセンス切れにより、今後入手不可能となります」とか「もう最後、フェラーリのアウトランは!!」などと、後者の場合は微妙に酔っ払いの口語体のような感じに書かれたりしてはいましたが、実際にそれから数ヶ月後には店頭からブチ消えやがり、当方なんとなく「プレミア結構つくかなぁ。特にX-BOX版あたり」とか高みの見物をしておりましたが、然程プレミアもつかず、何となく最近では「アウトラン2」の続編というか、少々パワーアップ版である「OutRun 2006 Coast 2 Coast」のX-BOX版がちょっと高値なくらい。天国のエンッオがみたら、草葉の陰で一人ハンカチの端をかみながら嘆き悲しそうなものです。ともあれ、そんな感じにライセンス契約が切れると、発売元よりも販売店側がピーチクパーチク騒ぎ始めるもので、今回はラジコンで有名な京商とフェラーリのライセンスが切れていた模様。ま、ともあれ今思い出しましたが「むかし、京商って、乾電池を三本も使う、大変力技な、ミニ四区のようなものを、販売していましたなぁ、用は電力こそパワーオブラブ」って感じですかねぇ。そんな訳で、その昔に友人が田宮のラジコンを買っていたのに、一人「京商」の「スコーピオン」を買った結果としてラジコン村八分にあった経験のある方は、なんとなく京商とフェラーリのライセンス切れをチェックしてみてはいかがでは。 ●「Kさん、勘弁してつかぁさい・・・」と思った時の話K氏、当方共に頭の上がらない方が勤め先にいる。その方はAさん、非常に心優しいが外見があまりにも強面なので、よく書けば「美女と野獣」の「野獣」、具体的に書けば「グーニーズ」に出てきた「スロース」、現実を直視してマジまじと眺めてみれば、キン肉マンに出てきた悪魔超人に酷似しているのでズバリ「心が奇麗なアトランティス」という感じだ。さて数ヶ月前にK氏と当方は台湾へ旅行へ出向いた。当方は「食事を食べに行くために」、K氏は「石で作られた白菜を崇めてからアジアンコピーワールドを堪能」という、文字に起こしてみれば「目的」は微塵も何もつながっていないスットコドッコイ凸凹チームではあったが、台湾で遊び倒すという共通項は一応は存在してはいたような気がしないでもない。しかし悲しいかな我らサラリーマン。そして二名しかいない同じ部署、つまり二人同時に休むという事は、天変地異が発生しようとも上司様がゆるさない。という事で、この計画は秘密裏に進められたのだが、問題は「いくら秘密裏に進めても、バレる事はばれる」ので、こっそり偉人賢人黄色人種的Aさんに「僕らがいない日に、なにかあったらごめんなさい」と先にあやまる事にした。結果として「秘密にしますよ。本当に」と半ば呆れながらも自愛に満ちた笑顔で全てを許してくれ、「いっそこの人は宗教でもやればよいのに」と瞬間的に思ったが、次の瞬間「ところで、台湾になにしに行くんですか?」と聞かれた瞬間、K氏は「君の好きな食べ物は何かな?」と聞かれて「ハイ、カレーです」と答える幼稚園児のようにハキハキと・・・・「台湾にコピーを買いに行ってきます!!!!」すげぇょ、この三十三歳。(もうすぐ三十四歳)そんな訳で、アジア各国へ旅行へ行く都度、「電気街」やら「駅の地下街」、「夜に開く市場」に出向き、昔はVideoCD、いまはコピーDVD-Videoを買い漁る事を夢みし方々ならば「ああ、アジアって素敵、流石東洋、流石not西洋。久しぶりに海外でコピーディスクでも買ってきますかね」とか何とか思えたりするのが、今回紹介する「あにめチックターミナル」さんの一コンテンツ「あにめチックな著作権探検隊!」です。こちらのサイトでは、「タイ」・「台湾」・「中国」・「香港(一応中国)」を駆け巡り、コピーはいづこぞと徘徊した結果を写真入で報告。サイトを眺める限り、まだまだ現役バリバリなコピーアニメーションやコピーゲーム等の情報が大満載。またアジア各国の素敵電脳ショップ情報もあわせて満載なので、卒業旅行にアジアン旅行、ゴールデンウィークに亜細亜旅行をしようと計画している方ならば楽しめる事は間違いなし。で・・・・旧コンセプトエンジンにいたアニマックスシアターこと「O」君のお話。先日、なんとなく、ついうっかりメールを送ったところ、何があったのか「同人誌は全て虎の穴にうりました」という一文が届き、もしかしたら明日あたりに天変地異が発生でもするのかと思ったが、天変地異が発生しても当方とKの業務は変わらずなので、もう正直どうでもよいなと思った。そんな訳で、台湾やベトナム、マレーシアやシンガポールへ行くという人間がいると「買って来て欲しい日本のドラマDVDリスト」を手渡す方や、香港へ行くという人間がいれば必ず「あ、今月の信和中心をチェックしてきてくれない?二ヶ月前に手入れくらったらしいんだけど、復活したかなーって」・・・という自己中心的なお願いをする屑野郎な方、パスポートをめくってみたらスタンプが一個残らず「アジア圏しかなかった」というコピーの魂百まで的人間は、こちらのサイトを眺めながら「今年の盆休みはコピー旅行としゃれ込むか」とか言ったり言わなかったりしてみてはいかがでは。本体サイトhttp://animechic.fc2web.com/index.htmlあにめチックターミナル追記・・・K氏は「ジブリDVD全集」というものを購入し、それを現地でみた当方は「あれ、これジブリ作品が一個だけたりないですね。パンダコパンダが」と言ったのだが、彼は「いらないよ、そんなの」とはき捨てた。しかし先日、「パンダコパンダ」が立川や渋谷でリバイバル上映されるのローソンに貼られたポスターで知り「僕のDVDにパンダコパンダ入ってたっけ?」と聞いてきたのはココだけの話。名作ですよね、パンダコパンダ。結局持ち込んだのかは知らないが。 スキンヘッドでかつ眼鏡のつるに二十万円近くするシルバーをあしらえているMさんは、入社して半年もしていないにも関わらず、大量の書類を作る業務を請け負っており、その請け負うのは全く持ってかまわないのだが、先日書いたように非常にタイピング速度が遅く、結果として仕事を鬼のようにたまってしまうという、負の循環に陥っている。そんなMさんを気にしたのが、ブログ側に登場している「K」さんなのだが、「タイピングが遅いので仕事が進まないのでは?」という趣旨の事を、Mさんに助言っぽくそりゃあまるでソレとなく言ってはみたのだが、当のMさんは「あ?そんな事を覚える暇がねぇよ」というような表情を一瞬したのちに「タイピングよりも、今は予算の組み方とか会社のいろいろな問題解決の為の勉強ですよ。やっぱり」みたいな趣旨の事を言っているのだが、この会話のやり取りを眺めていた当方も「明らかにブラインドタッチできたら、仕事の効率が8倍くらいになるんじゃないのかなぁ」などと考えたので、帰り道にK氏に「タイピングソフトなんかどうですかねぇ」みたいな話をしたところ、K氏はにやにやしながらこう言った。「きっとMさんの趣味のタイピングソフトを使えば、タイピング速度もアップするね。ところでMさんの趣味ってなに?」沈黙が続く。ちなみにM氏が持ち出した話で盛り上がったものを列挙すると●場末のしょぼくれた居酒屋を無理やり絶賛する話(店舗ほめ殺し)●チンカストーク(これはいつか後日に説明)●会社の愚痴/上司について(サラリーマンの定番)●僕はデザイナーデビューしようと思っているんですよ(ちなみに42歳)もう壊滅的に趣味なんかわかりゃしねぇ。そんなこんなで時は流れて一ヶ月。まだ微塵もブラインドタッチには程遠く、ブラインドタッチをするより明日の朝に眼が覚めたら昆虫になっている可能性のほうが、ブラインドタッチを一週間以内にマスターするよりも、よっぽど可能性が高いMさんに、「Mさん、いま北海道出張中のKさんと、僕でタイピングソフトプレゼントしますよ。これでブラインドタッチもばっちりですよ。あはははは」当然「一瞬かなり嫌な顔」。人はここまで一瞬で憎憎しい顔が作れるのかと思ったが、つづけて「そのタイピングソフトは、会社への愚痴と、上司の悪口だらけの、タイピングxxx(会社名)ですよ。どうですか?」Mさん、満面の笑みで大喜び。そんなわけで、CGIを自分のホームページに設置し、タイピング入力に使用する言葉や単語、口語体な文章など入力するだけで、「オリジナルタイピング打!"」を作成できるのが、今回紹介する「打鍵トレーナー」さんです。こちらのCGIでは、自分で好きな単語を登録してタイピングを競う事が可能。また、ローマ字入力とかな入力の双方に対応しているので、どっかのメーカーが発売している「ローマ字入力しかできないタイピングソフト」とは違い、かな入力ユーザーも大安心。で、、、、、このM氏、K氏、当方の三人が会社の愚痴をボヤいている際に出た言葉、それは「xxさんの娘がレイプされちゃえばいいのに」誰が言ったのかはご想像におまかせします。そんな訳で「ぁゃιぃわーるど」タイピングソフトを常々作ってみたいと考えていた住民な方や、「タイピング風の大地」と銘打って劇中最後のこまに登場するポエムでタイピングをしたいという方、「タイピング連邦」を作ってやる!!と息巻いてくれる根性があり、作ってみようと設置してみるも言葉が浮かばず「xxさんの娘がレイプされちゃえばいいのに」という単語を登録するような鬼畜野郎な方は、こちらのソフトウェアをダウンロードしてみてはいかがでしょうか。追記・・・ちなみに、この三人の会話には「願いがかなった、だから奴は死ぬ」とか、先述の「xxさんの娘がレイプされちゃえばいいのに」、「ひでぇなぁ、それ。でも面白いかも」(この話はいつか)というように、屑っぽい俗な日本語が飛び交っている。番外編として「会社の仕事、普通にがんばれるよ」というものもあるが。正確にはこの会社生活で、Mさんを除いては人間が丸くなった。ま、二人だけですけどね。 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[ 942] ソビエト連邦 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%93%E3%82%A8%E3%83%88%E9%80%A3%E9%82%A6
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ソビエト社会主義共和国連邦(ソビエトしゃかいしゅぎきょうわこくれんぽう、略称:ソビエト連邦(ソビエトれんぽう)、ソ連(ソれん))は、1922年に設立された世界最初の社会主義国である。1991年に連邦は解消され構成国は独立した。 首都はモスクワ。国旗の赤は革命を、交差した槌と鎌はそれぞれ労働者のシンボルと農民のシンボルであり労働者と農民の団結を意味し、その上の五芒星は五大陸の労働者の団結を意味している。 日本語表記は、ソビエト社会主義共和国連邦。通称、ソビエト連邦(「ソビエト」は「ソヴィエト」「ソヴェト」とも)。略称はソ連、または単にソヴィエト。二次世界大戦前は「ソ同盟」と訳されることが多かった。ソビエトとはロシア語で「評議会」の意。固有名詞(地名)を含まない唯一の国名だった(ただし、連邦を構成する諸共和国名には地名が入る)。略称として「ソ連邦」という場合もある。 英語圏以外の非共産圏においても一般的には旧国名のロシア(に相当する各言語の単語)と呼ばれることが多く、日本はソ連、ソビエトという呼称が一般的に定着した稀有な事例である(一部では俗に「労農ロシヤ」などども呼ばれた)。また、中国語を使用する漢字文化圏においても「蘇聯」と呼ばれる。 ペトログラードのデモに端を発する1917年の2月革命後、漸進的な改革を志向する臨時政府が成立していたが、第一次世界大戦でのドイツ軍との戦線は既に破綻しており国内の政治的混乱にも収拾の目処は付いていなかった。 同年8月にラーヴル・コルニーロフ将軍による反乱が失敗した後、ボリシェヴィキに対する支持が高まった。そこでボリシェヴィキは武装蜂起の方針を決め、10月下旬に権力奪取を成功させた。その後の列強による干渉戦争や内戦にも勝利して権力を確立した。ボリシェヴィキは1919年に共産党と改称した。 1922年に行われた全連邦ソビエト大会で国家樹立が宣言され、ソビエト社会主義共和国連邦が成立した。しかしその僅か2年後の1924年1月にレーニンは死去する。 レーニンの死後、独裁的権力を握ったヨシフ・スターリンは政敵であるトロツキーの国外追放(その後トロツキーは亡命先のメキシコで、スターリンが送り込んだ刺客により暗殺された)を皮切りに、反対派を徹底的に粛清して、自らを頂点とした一国社会主義路線を確立した。 1928年から行われた第一次五ヶ年計画の中核に置かれたコルホーズが代表する、強引な農業集団化に伴う「富農」絶滅や飢饉によって死亡した人数は、推計によって最大約700万人に達する可能性もあると言われている。 無理な農業集団化の強行により、1932年〜1933年には大飢饉が起こり、500万人とも1000万人とも言われる餓死者が出た。 特にウクライナにおける飢餓は甚だしく、400万人から700万人の餓死者が出た。2006年にウクライナ政府はこの飢餓をウクライナ人に対するジェノサイドと認定している。この「拙速な集団化政策」はウクライナ人弾圧の為に意図してなされたものであると言う説も有力である。 1930年代に大恐慌により多くの資本主義国が不況に苦しむ中、ソビエト連邦はその影響を受けずに高い経済成長を達成したが、その経済成長は政治犯や思想犯を中心とした強制労働(実質的な奴隷制度)に支えられ、その富は共産党の上層部に集中して配分された。 スターリン時代の大粛清時(ピークは1936年から1938年)には裁判を経ない処刑や強制収容所での過酷な労働等によって、一説には1200万人以上の人が粛清されたとされる。なお、大粛清による犠牲者数には諸説があるが、当時行われた正式な報告によると、1930年代に「反革命罪」で死刑判決を受けたものは約72万人とされる(但し、過酷な取調べ・尋問の過程で死亡した者や、有罪判決を受けて劣悪な環境下で服役中に死亡した者の人数については正確な統計が残されていないため、その人数を合わせれば犠牲者数は増大するであろう)。 独ソ不可侵条約に調印するヴャチェスラフ・モロトフ(後列中央はヨアヒム・フォン・リッベントロップとスターリン) 政権を掌握したヨシフ・スターリンは、ポーランドやルーマニアなどの東ヨーロッパ諸国を社会主義化し、自国の衛星国として、第一次世界大戦後にその勢力を急速に強めていたアメリカやその同盟国であるイギリスなどの「帝国主義」国との緩衝地帯にする計画を持っていた[要出典]。 しかし1930年代に入ると、ドイツに「共産主義打倒」を掲げたアドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が政権に就き、同じくポーランドやチェコスロバキアなどのドイツ支配圏の東ヨーロッパ諸国への東方拡大を狙い始めた。その後両者は東ヨーロッパ諸国の支配権を巡って激突することとなる。 しかし1939年、それまで敵対していたドイツと独ソ不可侵条約を結び、同年のドイツのポーランド侵攻の際にはポーランドの東半分(ガリツィアなど)を占領した。またバルト三国に圧力をかけ、ソ連軍の通過と親ソ政権の樹立を要求し、その回答を待たずに3国に進駐した。さらに親ソ政権を組織し、反ソ連派を粛清或いは収容所送りにして、ついにこれを併合した。同時にソ連はルーマニアにベッサラビアを割譲するように圧力をかけ、1940年6月にはソ連軍がベッサラビアと北ブコビナに進駐し、領土を割譲させた。さらに隣国のフィンランドを冬戦争により侵略してカレリア地方を併合した。 1941年6月に独ソ戦いわゆる「大祖国戦争」が開始され、その結果ソ連は連合国側として第二次世界大戦に参戦した。ドイツ軍の猛攻とスターリンによる無理な作戦の遂行がたたり、開戦後まもなく首都モスクワに数十キロに迫られた他、レニングラード攻防戦やクルスクの戦い等により軍民併せて数百万人の死傷者を出したものの、日ソ中立条約による日本軍の不参戦やイギリス軍やアメリカ軍などによる西部戦線における攻勢、アメリカなどによる軍事物資提供による後方支援のおかげもあり、最終的にドイツの首都であるベルリンを陥落させ勝利した。 その際にソビエト軍は、「ベルリン入城は英米連合国揃って行う」との密約[要出典]を無視したばかりか、ベルリン陥落後もドイツ領内侵攻を続けたためアメリカを慌てさせた。ソビエト軍はドイツの兵士や市民が降伏、投降した後でも多数の市民の殺害や婦女暴行など傍若無人の乱暴な振る舞いを続けるため、ソビエト軍を恐れたドイツ軍は防衛地域を放棄して反転西進しアメリカ軍に降伏するようにした。これによりソビエト軍はドイツの東側を難なく占領することが出来、その後の東西ドイツ分割を招くこととなった。 なお、独ソ戦の開始以前に日ソ中立条約を結んでおり、大戦中を通じ交戦状態になかった日本(大日本帝国)に対しては、連合国首脳によるヤルタ会議における密約(ヤルタ協定)に基づき、大戦末期の1945年8月8日になって不可侵条約を一方的に破棄し、ソ連対日宣戦布告をし千島列島や南樺太、満州国(現在の中華人民共和国東北部)、朝鮮半島北部に侵攻した。 この際にソビエト軍は、自国の占領地を少しでも増やす目的から日本軍の降伏による停戦さえ無視し侵攻を続け、多くの捕虜を自国内に連行し、劣悪な状況下でインフラ整備等の労働力として酷使した為、その多くが死に至り、生き残った者達に対しても、日本への帰国後に共産革命を起こさせるべく共産主義教育をおこなった(シベリア抑留)。これらの国際法を無視した行為とその後の対応が後の北方領土問題、シベリア抑留問題の原因となった。 第二次世界大戦の勝利によりソ連はドイツ、ポーランド、チェコスロバキアからそれぞれ領土を獲得し、西方へ大きく領土を拡大した。 又、開戦前に併合したエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国への支配、ルーマニアから獲得したベッサラビア(現在のモルドバ)の領有を復活させた。更にこれらの新領土から多くの住民を追放あるいはシベリアなどに強制移住させ、代わりにロシア人を移住させた。 また、極東では日本の領土であった南樺太及び千島列島を占領し、領有を宣言した。 さらに、日本が旧満州に持っていた各種権益のうち、関東州の旅順・大連の両港の租借権や旧東清鉄道(南満州鉄道の一部)の管理権の継承を中華民国に認めさせた。 戦後ソ連はドイツの支配からソ連の支配圏とした東ヨーロッパ諸国の反対派を粛清し、スターリン主義的な社会主義政権を導入しこれらをソ連の衛星国とした。ワルシャワ条約機構などにおける東側諸国のリーダーとして、アメリカ合衆国をリーダーとする資本主義(西側諸国)陣営に対抗した。 1952年に死去したスターリンの死後新たな指導者となったニキータ・フルシチョフはスターリン批判を行い、その行過ぎた全体主義的独裁の政策を大幅に緩めた。しかしソ連が極端な警察国家、監視国家であることには変わりなかった。彼は食料生産に力を注ぎ一時的には大きな成功を収めるものの、あまりにも急な農業生産の拡大により農地の非栄養化、砂漠化が進み、結局はソ連は食料を海外から輸入しなければならなくなった。 なお、東欧のソ連衛星国ではスターリン批判以降しばしば改革共産主義運動や反体制運動が発生したが、ソ連はこれらの運動のいくつかに対しては武力介入し、これを鎮圧し、反対派を殺害・処刑・投獄した(ハンガリー動乱、プラハの春など)他、有形無形の圧力をかけ収拾させた。 また、第二次世界大戦から崩壊までの間を通じて、アメリカとの間では直接戦争こそ生じなかったものの、ベルリン封鎖などの有形無形の敵対行動や朝鮮戦争やベトナム戦争などの世界各地での代理戦争という形で冷戦と呼ばれる対立関係が形成された。特に限りない軍拡と、核兵器の開発競争は世界を核戦争の危機に晒すものだった(1962年のキューバ危機など)。その開発競争が如何に杜撰であったかは、後年のチェルノブイリ原発事故の経緯が物語っている。原子炉構造に問題があったにもかかわらず当初は運転ミスと断じられ、プリピャチ市民は放射線の恐怖を殆ど知らずに日常の日と変わらずに日光浴や散歩をする人さえいた。 1960年代に入りフルシチョフ体制が安定するとアメリカとの関係は多少改善が進んだ。しかし社会主義の純化を進めており、フルシチョフの改革路線に懐疑的であった毛沢東率いる中華人民共和国との関係は国境地帯における軍事衝突(ダマンスキー島事件)や北京のソ連大使館襲撃事件が起こるなど逆に悪化した(中ソ対立)。 その後1964年に、農業政策の失敗と西側諸国に対しての寛容的な政策を理由に失脚させられたフルシチョフに代わり、強硬派のレオニード・ブレジネフが指導者となると国内問題を放置することが多くなり、官僚の世襲化など体制の腐敗が進み、食料や燃料、生活必需品の供給が滞るようになり、国民の多くは耐乏生活を強いられるようになっていった。また、これに合わせるように東側諸国全体の経済が次第に沈滞していった。 1979年にブレジネフは、隣国のアフガニスタンに成立した共産主義政権を支える為にアフガニスタン侵攻を行ったものの、結果的にイスラム諸国および西側諸国による猛反発を受け、翌年に行われたモスクワオリンピックの大量ボイコットを招くことになった。この侵攻は1989年まで続き、国際社会からの孤立を招いただけでなく、莫大な戦費を10年間の長きに渡り浪費することや多くの戦死者を出すことによって、ただでさえ沈滞していた経済をますます圧迫する結果になった。 また、アメリカのロナルド・レーガン政権はソ連を「悪の帝国」と名指しで批判して軍拡競争を行い、傾きかけていたソ連経済は完全に破綻し国内では深刻なインフレや闇経済が蔓延する結果となった。 1982年に死去したブレジネフの後継者となったユーリ・アンドロポフと、アンドロポフの死後に後継者となったコンスタンティン・チェルネンコは、相次いで指導者の座に就いたものの、共に就任後間もなく闘病生活に入りそのまま病死したため、経済問題を中心とした内政のみならず、外交やアフガニスタン問題についてさえも具体的な政策を殆ど実行に移せなかった。 しかしその後、この両名の時代においてますます深刻化した経済的危機を打開するべく、1985年3月に登場したミハイル・ゴルバチョフの指揮下でペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)が進められた。 これにより、長きに渡った一党独裁体制下で腐敗した政治体制の改革が進み、1990年にはこれまでの一党独裁制にかわって複数政党制と大統領制が導入された。しかし、情報公開や報道規制の緩和は長年抑えられていた民族感情を刺激し、ソ連邦を構成していた各共和国では急速に分離独立の動きが強まっていく。 また、これらのゴルバチョフが推進するソビエト連邦における改革と衛星国に対する支配の緩和を受けて、1989年から1990年にかけて東ドイツやハンガリー、ポーランドやチェコスロバキアなどの衛星国が相次いで民主化を達成した。その殆どは事実上の無血革命であったが、ルーマニアでは一時的に体制派と改革派の間で戦闘状態となり、長年独裁体制を強いてきたニコラエ・チャウシェスクが改革派による即席裁判で死刑となりその結果民主化が達成された。 なお、ソビエト連邦は冷戦初期に起きたハンガリー動乱やプラハの春の時と違い、これらの衛星国における改革に対して殆ど介入しなかったばかりか、これらの政府による国民に対する武力行使に対しては明確に嫌悪感を示した。 ソビエト連邦を含む東側諸国の相次ぐ民主化により冷戦状態は事実上崩壊し、これらの動きを受けて1989年12月に地中海のマルタでゴルバチョフとアメリカ大統領のジョージ・H・W・ブッシュが会談し、正式に冷戦の終結を宣言した(マルタ会談)。 そして1991年3月17日には連邦維持の賛否を問う国民投票が行われ、投票者の約76%が連邦維持に賛成票を投じることとなった(バルト三国の様に独立志向が強い共和国では投票はボイコットされた)。その後新連邦条約に基づき連邦を構成する各共和国への大幅な権限委譲と連邦の再編が行われる予定だった。 しかし、それらの改革路線がソ連崩壊に結びつくことを危惧したゲンナジー・ヤナーエフやウラジーミル・クリュチコフらの保守派によって8月にクーデター(ソ連8月クーデター)が発生し、ゴルバチョフを軟禁し改革路線を元に戻そうとしたものの、ボリス・エリツィンら改革派がこれに抵抗し、さらに軍や国民の多く、さらにアメリカやフランス、日本やイギリスなどの主要国もクーデターを支持しなかったことから完全に失敗に終わる。 クーデターの失敗によってクーデターに賛同した保守派が失脚したことにより国家組織が崩壊、ゴルバチョフはクーデター後にソ連共産党書記長を引責辞任し、議会はバルト三国独立を承認した。さらに同年12月、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ共和国が独立して独立国家共同体(CIS)を創設、残る諸国もそれにならいCISに加入し、この年の12月25日にソビエト連邦は完全に解体した。 ソビエト社会主義共和国連邦は当時において世界一の広さを誇った国であった。西はノルウェー、フィンランド、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア。南はトルコ、イラン、アフガニスタン、モンゴル、中華民国(1949年以降は中華人民共和国)、北朝鮮(1948年以降)、日本と接していた。全域で寒波の影響が非常に強力なため、冬季は北極海に面したところや内陸部を中心に、とてつもなく厳寒である。 長い国境のうちにはいくつかの領土問題を抱えており、1960年代には軍事紛争(中華人民共和国との間におけるダマンスキー島事件)になったケースもある。海を隔てた隣国の1つである日本とは北方領土問題を持っており、この問題はロシアになった現在も続いており解決されていない。またフィンランドにもカレリア地域の問題が残されている。 なお、構成共和国には、ソビエト連邦から離脱する自由が憲法で認められていた。しかし、連邦離脱の手続きを定めた法律はなく、ソビエト連邦の末期にミハエル・ゴルバチョフが定めた連邦離脱法は、極めてハードルの高いものであった。このためバルト三国は連邦離脱法を無視し、1990年に独立することになる。 また、国際連合(国連)にはソビエト連邦そのものとは別枠でウクライナ、白ロシア(現・ベラルーシ)が独自に加盟したこともあった。 間接代表制を拒否し、労働者の組織「ソビエト」(協議会、評議会)が各職場の最下位単位から最高議決単位(最高ソビエト)まで組織されることで国家が構成されていた。 但し、ソビエト制度が有効に機能した期間は殆ど無いに等しく、ソビエトの最小単位から最高単位まで全てに浸透した私的組織(非・国家組織)であるソビエト連邦共産党が全てのソビエトを支配しており、一党独裁制の国家となっていた(但し、ロシア革命直後のレーニン時代初期とゴルバチョフ時代に複数政党制であった)。党による国家の各単位把握及びその二重権力体制はしばしば「党-国家体制」と呼ばれている。 この民主集中制と計画経済を基礎とするいわゆるソ連型社会主義と呼ばれる体制は、党官僚による抑圧的な体制であり、言論などの表現や集会、結社の自由は事実上なかった。このため、カール・マルクスが唱えた社会主義の理想とは大きくかけ離れ、一般の労働者・農民にとっては支配者がロマノフ朝の皇帝から共産党に代わっただけで、政治的には何の解放もされていない体制となってしまっていた。そのため実質的最高指導者である書記長は「赤色皇帝」とも呼ばれる。 特に、スターリン時代は粛清によって、多くの人々が殺害され、スターリン主義のもと、社会主義・共産主義は抑圧的な体制とイコールになってしまった。スターリンの没後も国家反逆罪等で逮捕又は亡命を強いられた人は増え続け、ソビエト連邦解体までの70年間に6200万人以上に及ぶ人々が粛清された。これらは現行のロシア政府が1997年に認めた公式データであり、粛清の全容を部分的にしか公開していない。この中には日本人抑留者や亡命日本人も含まれているが、日本政府は謝罪や賠償を現行のロシア政府に求めようとはしていない。 なお、スターリン時代からゴルバチョフが大統領制を導入するまで、国家元首はソビエト最高会議幹部会議長であったが、実権はソビエト連邦共産党の書記長にあった。なお書記長と最高会議幹部会議長を兼任した者もいる。 外交関係では、社会主義国(東側)陣営の盟主としてアメリカ合衆国を筆頭とする資本主義国(西側)と対決(冷戦)していた。 成立当初は孤立したが、独ソ戦で侵攻してきたドイツを撃退・打倒した第二次世界大戦後に、東ドイツやチェコスロバキア、ブルガリアなどの東ヨーロッパ諸国を衛星国とし、東アジア(中華人民共和国やベトナム、北朝鮮など)、中南米(キューバやチリ、ニカラグアなど)、アフリカ(アンゴラやリビア、コンゴなど)などでも「民族解放」や「反帝国主義」を唱える社会主義独裁政権の成立を後援し、アメリカや西ドイツ、イギリスやフランスなどの西ヨーロッパ諸国、日本などの資本主義国と対峙した。 ソビエト連邦の支援により、蒋介石率いる中国国民党との国共内戦に勝利した中国共産党によって1949年に成立した中華人民共和国とは当初協力関係にあったが、1950年代後半より両国の指導層による相手国への非難の応酬や大使館乱入事件が起きるなど徐々に関係が悪化した。 1960年代の後半には領土問題による軍事衝突(ダマンスキー島事件などの中ソ国境紛争)や指導層の思想的な相違の問題から中ソ対立が表面化した。両国間のこの様な対立関係は、その後中華人民共和国における内乱である文化大革命が終結する1970年代後半まで続くことになる。 その様な中で、ソ連を牽制しようとしたアメリカが1970年代に入り急速に中華人民共和国に近づき、国交を結び、その後アメリカの同盟国である日本も中華人民共和国と国交を結んだが、独裁体制を敷きソ連と対峙していた毛沢東の死去と文化大革命の終焉によりソ連と中華人民共和国の関係も改善された。 ロシア時代に日露戦争で戦い完敗した日本とは、ソビエト連邦成立後も満州国との国境などで度々軍事的衝突を起こしていた。その後第二次世界大戦中の1941年4月に日ソ中立条約が締結されたものの、ヤルタ会議において連合国間で結ばれた密約を元に、1945年8月にこれを一方的に破り日本に対して参戦し、その上日本が降伏した後も侵略を続け北方領土などの多くの日本の固有の領土を違法に占拠した。その上多くの日本人捕虜を戦後長い間拘留し強制労働に処し、その多くを死に追いやった。この件に関してはロシア政府は近年ようやくシベリア強制労働の被害者・遺族に対して謝罪と賠償を始めつつある。 その後、1956年に日ソ共同宣言を出して国交を回復したものの、日本がアメリカの同盟国であることや北方領土問題が解決されなかったために関係改善は進展しないまま推移。冷戦終結、ソ連崩壊を経た現在でも日本と事実上の後継国家となったロシアの間には正式な平和条約の締結が成されていない。 なお、冷戦の最中には日本社会党などの左翼政党や、ベトナム戦争に反対するべ平連などの左翼的な反戦・市民運動組織に対し、資金援助や情報の提供、武器の供与など有形無形の指示・援助を行い保守勢力に揺さぶりをかけたことが判明している。また、KGBなどが中心となり大使館員などに偽装した多くのスパイを政府内部や自衛隊などに送り込み、ラストボロフ事件などの数々の事件を起こした。 このような様々な活動を行った結果、与党である自由民主党の国会議員をはじめとする保守勢力における共産主義者や左翼への警戒心を増大させ、「反共産主義」を掲げる統一協会とその関連団体である勝共連合と接近し、岸信介など多くの有力な自由民主党議員が統一協会と協力関係を結ぶ一因となったと言う意見も多い。その一方で、自由民主党の国会議員にも様々な工作を仕掛けただけでなく、これらの中には自主的にソ連とのパイプを利用して利権を貪る者がいた。その様な中で、ソ連の樺太侵攻を描いた映画『氷雪の門』が製作された際には、日ソ関係の悪化を恐れた自由民主党と外務省が映画の製作者側に圧力をかけ、公開中止に追い込むという事態を招いている。 社会主義国陣営の盟主として、資本主義国の事実上の盟主となっていたアメリカ合衆国とは「冷戦」という形で対立し、1950年代における朝鮮戦争や1960年代におけるベトナム戦争など、代理戦争という間接的な形で軍事的対立をしていたが、全面的な核戦争に対する恐怖が双方の抑止力となったこともあり、直接的かつ全面的な軍事的対立はなかった。 しかしベルリン封鎖やキューバ危機などでは全面的な軍事的対立の一歩手前まで行った他、U-2撃墜事件における領空侵犯を行ったアメリカ軍機の撃墜など、限定的な軍事的対立があったのも事実である。 また、この様な対立関係にあったにもかかわらず、冷戦下においても正式な国交が途絶えることはなく、双方の首都に対する民間機の乗り入れが行われていた。しかし、大韓航空機撃墜事件やソ連のアフガニスタン侵攻などの事件があった際には、「制裁措置」として民間機の乗り入れが時限的に制限されたり、スパイ事件などが明るみになり、一方の外交官がペルソナ・ノン・グラータとして国外追放になると、それに対する「報復措置」として、もう一方の国の外交官を同じ容疑で国外追放するなど、茶番じみた外交的駆け引きが行われていた。 外国への個人的理由での渡航は、亡命と外貨流出を防ぐということを主な理由に原則的に禁止されており、国交がある国であろうがなかろうが、当局の許可がない限り渡航は不可能であった。また許可が下りた場合でも様々な制限があり、個人単位の自由な旅行は不可能であった。さらに、旅行者は外国から帰国すると必ずといっていい程諜報部から尋問を受けるので本人にはその意思が無くても外国で見たことを洗いざらい喋らねばならず、結果的にスパイをしてしまうというケースが多かった。 また、西側諸国人との交際や結婚は事実上不可能な状態であった上、衛星国人との結婚でさえも当局からさまざまな妨害を受けたと言われている。なお、外国航路を運行する船舶や外国で演奏旅行をする楽団などには、乗務員や楽団員の亡命を阻止し、外国における言論を監視するために必ず共産党の政治将校が同行していた。 アメリカを筆頭とする西側諸国への対抗上、核兵器や核兵器を搭載可能な超音速爆撃機、大陸間弾道ミサイルや大陸間弾道ミサイルを搭載可能な原子力潜水艦、超音速戦闘機や戦車などを配備し、強力な軍事力を保持していた。 しかし、こうした強力な軍事力の維持は軍事費の増大をもたらし、その分インフラストラクチャーや流通システムなどの整備に遅れをきたし、結果的に国民経済を疲弊させた。また、1979年から10年続いたアフガニスタン侵攻は泥沼化し、何の成果もなく失敗。多大な戦費や人命を失っただけでなく、ソビエト連邦の威信をも低下させた。また、大韓航空機撃墜事件のような民間機撃墜事件を引き起こすなど、共産主義的な官僚主義と非人道的さが西側諸国の反発を買った。 また、ワルシャワ条約機構の中心国となり、東ヨーロッパ諸国に基地をおき、ハンガリー動乱やプラハの春など衛星国での改革運動を武力鎮圧し、ワルシャワ条約機構加盟国のみならず、北朝鮮や中華人民共和国、キューバや北ベトナムなど、世界中の反米的な社会主義、共産主義国に対して小銃から爆撃機にいたるまで各種の武器を輸出した。現在でも第三世界にはソ連製の武器が大量に流通している。 それだけでなく、軍事技術をこれらの国に輸出した他、将校などを派遣して軍事訓練を行ないこれらの国における軍事技術の向上に寄与し、その中には、モスクワのパトリス・ルムンバ名称民族友好大学や各種軍施設などにおけるスパイやテロリストの養成や資金供与、武器の供与なども含まれている。 なお、朝鮮戦争やベトナム戦争などの代理戦争の際には、友好国側を積極的に支援しただけでなく、朝鮮戦争においては当時の指導者のヨシフ・スターリンが、北朝鮮の金日成に対して事実上開戦を指示したと言われる。 また、冷戦期間を通じて、日本やアメリカ、ヨーロッパ諸国などの西側諸国や、南アメリカやアジア、アフリカ諸国の非社会主義政権国における社会主義政党や反政府勢力、非合法団体やテロ組織を含む反社会勢力、反戦運動団体(その多くが事実上の反米運動であった)に対する支援を行い、その中には上記と同じく各種軍施設などにおけるスパイやテロリストの養成や資金供与、武器の供与なども含まれていた。 航空宇宙技術では、アメリカとの対抗上、国の威信をかけた開発が行われた(宇宙開発競争)。人類初の人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げ成功、ユーリ・ガガーリンによる人類初の有人宇宙飛行の成功、宇宙ステーション「ミール」の長期間に渡る運用の成功などの宇宙開発の他、原子力開発の分野に至るまで、ソ連は人類の巨大科学に偉大な足跡を残している。現代のロケット工学や宇宙開発の基礎はソ連のコンスタンチン・E・ツィオルコフスキーが築いたものである。 また、航空機でもミコヤン・グレビッチ設計局(ミグ)、イリューシン設計局、ツポレフ設計局などによって独創的な機構を持つ戦闘機・爆撃機・輸送機や旅客機が製造され、現在でも各国で使用されている。第二次世界大戦中にT-34を開発し、連合国だけでなく、ドイツ戦車にも大きな影響を与えた。また、世界最初の空挺部隊を創設したのもソ連軍である。 しかし、一方ではそれが軍事費とともに国家の経済を疲弊させたほか、航空宇宙技術や重工業を優先するあまりに消費財の製造が後回しにされ、民衆を苦しめる結果になった。また、チェルノブイリ原発事故に見られるように人命や健康、自然環境の保護などへの意識が低いまま原子力開発や工場の建設などが行われた。このため、地域によっては土壌や河川に深刻な放射能汚染が発生し、多くの人が健康被害を受けることになった。 また、末期になると進んでいたはずの原子力技術や航空宇宙技術でもアメリカのそれに対して10年単位で見劣りするようになり、軍用の製品や技術を東芝や日立などの日本のメーカーから導入することもあった。半導体・集積回路技術でも大幅に後れを取り、西側のようにデジタルコンピュータの急速な進歩と普及を、ついになし得なかったことも、いわゆるハイテク分野で決定的に立ち後れた原因だった。 なお、これらの先進技術、特に宇宙開発や原子力開発は外国人立ち入り禁止の閉鎖都市で行われ、これらの都市は地図に記載されなかった。 経済面では計画経済体制がしかれ、農民の集団化が図られた(集団農場)。1930年代に世界恐慌で資本主義国が軒並み不況に苦しむ中、ソ連はその影響を受けずに非常に高い経済成長を達成したため、世界各国に大きな影響を与えた。しかし、その経済成長は政治犯や思想犯を中心とした強制労働に支えられ、その富は共産党の上層部に集中して配分されていた実態がその後明らかになった。また、1960年代以降は計画経済の破綻が決定的なものとなり、消費財の不足などで国民の生活は窮乏した。 また、流通の整備が遅れたため、農製品の生産が十分にあったとしても、それが消費者の手元に届けられるまでに腐敗してしまうという体たらくであった。その為に闇市場のような闇経済や汚職が蔓延し、その様な中で共産貴族がはびこるという結果になった。そもそも計画経済を他の産業と比べて自然に左右され、成果が保障されない第一次産業にも導入したのは大きな間違いであったといえる。毛沢東が大躍進政策で生態系や、経済の常識をまるで無視した増産計画で大失敗をしたのもこれに起因している。 東西対立の世界構造の中で、軍事に高い技術と莫大な資金が投じられる一方、冷蔵庫や洗濯機などの国民生活に必要な電化製品や、石鹸や洗剤、シャンプーなどの一般消費財の開発と生産、物流の整備はおろそかにされ、西側諸国に比べ技術、品質ともに比べ物にならない電化製品でさえ、入手するために数年待たなければいけないというような惨憺たる状態であった。 殆どの電化製品や自動車の技術は、西側諸国の技術より10年以上遅れていたといわれている上、その多くがフィアットやパッカードなどの西側の企業と提携し、旧型製品の技術供与を受けたものであった。 上記のように、電化製品や消費財、工作機械や自動車などの技術や品質が西側諸国のそれに対して決定的に劣っていたことから、西側諸国に対しての輸出は、農産物や魚介類などの第一次産品や、原油や天然ガスなどのエネルギー資源が主であった。また、通貨のルーブル自体が、国外で通貨としての価値が低かったこともあり、エネルギー資源の貿易がある国を除いては、西側諸国との貿易収支はおおむね赤字であったか非常に少ないものであった。 それに反して衛星国や社会主義国との間の貿易は、それらの多くの国の外貨が乏しかったことや、ココムなどの貿易規制により西側諸国からの貿易品目が制限されていたことから、一次産品やエネルギー資源はもとより、西側諸国では相手にされなかった電化製品や消費財、工作機械から自動車、航空機などの軍事物資に至るまでが輸出された。また、その多くが事実上の援助品として、バーター貿易など無償に近い形で供給された。 なお、西側諸国の電化製品や化粧品、衣類などの消費財の輸入、流通は原則禁止されていたものの、モスクワなどの大都市のみに設けられた「グム」などの外貨専用の高級デパートで入手することが可能であった。しかし、実際にそれらを購入することができるのは外国人か共産党の上層部とその家族だけであった。そのため、マールボロのタバコやリーバイスのジーンズなど多くの西側製品が闇ルートで流通していた。 国民の自分の在住している地域以外への遠距離移動が事実上限られていただけでなく、国外からの旅行者のソビエト国内における移動に大幅な制限があったこともあり、国内外の交通に対する需要は非常に限られていた。鉄道網は、長距離や近距離を問わず軍事転用が容易なことから比較的整備が進んでいたが、西側諸国と違い個人所有の自動車の数が限られていたことから、高速道路やレンタカーなどの自動車インフラは貧弱なままであった。 外国への個人的理由での渡航は、亡命と外貨流出を防ぐということを主な理由に原則的に禁止されており、国交がある国であろうがなかろうが、当局の許可がない限り渡航は不可能であった。また許可が下りた場合でも様々な制限があり、個人単位の自由な旅行は不可能であった。しかしながら、国力と友好関係を誇示することを目的に、国外への航空機や船舶による定期便は比較的整備されていた。 広大な国土は主に航空機によって結ばれていた。なお、国内の航空路線網は唯一にして最大の航空会社である国営のアエロフロート・ソビエト航空によって運行されており、長距離国際線や、航空機によってのみアクセスが可能な僻地や、舗装された滑走路が整備されていない地方空港への運行が可能なように、大型ジェット機からターボプロップ機、小型複葉機まで様々な機材を運行していた。 同じく国際線もアエロフロートによってのみ運行されていたが、ソビエト国民の海外渡航や国外からの旅行者のソビエト国内における移動に大幅な制限があるにもかかわらず、国力と友好関係を誇示することを目的に、西側の主要国や東欧の衛星国、キューバやアンゴラ、北朝鮮などの友好国をはじめとする世界各国に乗り入れを行っていた。しかし、その目的から完全に採算度外視で運行していた上、そのサービスは西側諸国のものには遠く及ばなかったことから、西側諸国の多くでは格安な料金と劣悪なサービスでのみ知られていた。 また、海外からは多くの友好国の航空会社がモスクワなどの大都市を中心に乗り入れていたほか、日本やアメリカ、ドイツなどの西側諸国からも、日本航空やパンアメリカン航空、ルフトハンザ・ドイツ航空などの航空会社が乗り入れていた。なお、日本との間は日本航空とアエロフロートが東京(羽田空港、成田空港)、新潟(新潟空港)とモスクワ、ハバロフスク、イルクーツクとの間に定期便を運行していた。 シベリア鉄道を代表とする鉄道網によって各都市が結ばれていた他、衛星国を中心とした近隣諸国に国際列車も運行されていた。なお、モスクワやレニングラード(現サンクトペテルブルク)などのいくつかの大都市には地下鉄網が整備されており、社会主義建設の成功を誇示する目的で、駅構内は宮殿のような豪華な装飾が施されていた。 個人による自動車の所有だけでなく、自分の在住している地域以外への遠距離移動が事実上限られていたこともあり、西側諸国で行われていたような高速道路による国民の移動は一般的なものではなかった。なお、大都市の市街地にはバス路線網が張り巡らせられていた。 上記のように外国の放送の傍受が禁止されていた上、テレビやラジオ、新聞などのマスコミによる報道は完全に共産党の管制下に置かれ、国家や党にとってマイナスとなる報道は一切流れることはなかった。このような規制は外国の事件や、チェルノブイリ事故や大韓航空機撃墜事件のような国際的に影響がある事件に対してだけでなく、国内の政治、経済的な事件も、党幹部の粛清や地下鉄事故、炭鉱事故のような事件に至るまで、それが国家や党に対してマイナスの影響を与えると判断されたものは殆ど報道されることがなかったか、もし報道されても国家や党に対して有利な内容になるよう歪曲されていた。そのため、西側の国でオリンピックなどがあると、そこで初めて真実を知ったソ連の選手や関係者がそのまま亡命希望するケースが頻発した。 また、共産党書記長などの党の要人が死去した際には、党による正式発表に先立ち、テレビやラジオが通常の番組を急遽停止し、クラシック音楽もしくは第二次世界大戦戦史などの歴史の映像に切り替わり、クレムリンなどの要所に掲揚されている国旗が半旗になるのが慣わしであった。このため、国民(と西側の報道機関)の多くは、テレビやラジオの番組が変更され、要所に掲揚されている国旗が半旗になる度に、どの要人が死去したかを推測しあっていたと言われている。 西側諸国の報道機関の特派員は基本的に国内を自由に取材、報道することは禁じられており、事前に申請が必要であったがその多くは却下され、たとえ許されたとしても取材先の人選や日程は全てお膳立てされたものに沿わなければならなかった。また、モスクワオリンピックなどの国際的イベントや、西側諸国の首脳陣の公式訪問が行われる際にソ連を訪れた報道陣に対しては、この様なお膳立てされた取材スケジュールが必ず提供された。 また、西側諸国の報道機関で働くソビエト人従業員も自主的に選択することは許されず、当局から宛てがわれた者を受け入れるのみとされ、その多くが西側諸国の報道機関やその特派員の行動を当局に報告する義務を負っていた。 党の要人が失脚した(もしくは粛清された)際にはその事実が即座に政府より正式発表されることはまれで、このため西側諸国の情報機関員や報道機関の特派員は、メーデーなどをはじめとする記念日のパレードの際にクレムリンの赤の広場の台の上に並ぶ要人の立ち位置の変化を観測し、失脚などによる党中央における要人の序列の変化を推測し、これを「クレムリノロジー」と呼んでいた。 特にバベルの塔にも例えられる世界最大最高層の超巨大建築物を目指したソビエト・パレスは後世の建築家だけでなく、形態的にはイタリアやドイツ、日本などの建築に大きな影響を与えた。ソ連のプロパガンダはイワン・パヴロフやレフ・ヴィゴツキーなどの心理学者の理論に基づいていた点で先駆的だった。他にもブラウン管を使ったテレビを世界で初めて発案した専門家もおり、テレビの研究も活発だった。 ロシア革命によって無神論を奉じるソビエト連邦が成立すると、ロシアの国教であったロシア正教会は多数の聖堂や修道院が閉鎖され、財産が没収された。後に世界遺産となるソロヴェツキー諸島の修道院群は強制収容所に転用された。 また、聖職者や信者が外国のスパイなどの嫌疑で逮捕され、また多数の者が処刑され殉教した。当初は無神論を標榜するボリシェヴィキに対して強硬な反発を示していたモスクワ総主教ティーホン(チーホン)は、想像以上に苛烈な弾圧が教会に対して行われていく情勢に対して現実的姿勢に転換し、ソヴィエト政権をロシアの正当な政府と認め一定の協力を行ったが、教会の活動は著しく制限された。政府の迫害を恐れ多数の亡命者も出た。 1931年にはスターリンの命令によって救世主ハリストス大聖堂が爆破されたが、独ソ戦におけるドイツの侵攻に対して国民の士気を鼓舞する必要に駆られたスターリンは、それまでの物理的破壊を伴った正教会への迫害を方向転換して教会活動の一定の復興を認め、1925年に総主教ティーホンが永眠して以降、空位となっていた総主教の選出を認めた。この際にそれまで禁止されていた教会関連の出版物が極めて限定されたものではあったものの認められ、1918年から閉鎖されていたモスクワ神学アカデミーは再開を許可された。 だがスターリンの死後、フルシチョフは再度、ロシア正教会への統制を強化。緩やかかつ細々とした回復基調にあったロシア正教会は再度打撃を蒙り、教会数は半分以下に減少。以降、ソ連崩壊に至るまでロシア正教会の教勢が回復する事は無かった。 広大な国土の中でも、中央アジア地域ではイスラム教が大きな勢力を持っていたが、ソビエト連邦の成立とともにロシア正教など他の宗教とともに弾圧されることとなった。しかし人々の心の中の信仰心までは抑えることができず、他の宗教と同じくソ連崩壊後は教勢が回復した。またソ連国内における布教活動自体は許されることはなかったものの、日本の創価学会とは外交的見地から友好関係を保っていた。 言論・表現の自由がなかったため、文学者の中には亡命を余儀なくされるものや、ノーベル文学賞受賞のボリス・パステルナークのように受賞辞退を余儀なくされるもの、同じくノーベル文学賞受賞の ソルジェニーツィンのように国外追放されるものがいるなど、文化人にとっては受難が相次いだ。 革命直後のソ連ではウラジミール・レーニンが革命的な前衛芸術を奨励したため、抽象芸術や構成主義が生まれ、ロシア・アヴァンギャルドは共産党のいわば公認芸術となっていた。当時のソ連は世界初の電子音楽機器テルミンが作られ、モンタージュ映画が生まれるなど前衛芸術のメッカと化しており、外国から不遇だった多くの前衛芸術家がソビエト連邦の建設に参加した。例えば、前述したソビエト・パレスの計画にはル・コルビュジエ、ヴァルター・グロピウス、エーリヒ・メンデルスゾーン、オーギュスト・ペレ、ハンス・ペルツィヒといった新進気鋭のモダニズム建築家たちが関わった。レーニン自身もダダイストだったという学説も出ている(塚原史『言葉のアヴァンギャルド』)。 しかし、スターリン政権下の1932年に行われたソ連共産党中央委員会にて「社会主義リアリズム」の方針が提唱されて以降は、1930年代前半のうちに文学や彫刻、絵画などあらゆる芸術分野の作家大会で公式に採用されるに至り、これにそぐわぬものは制限され、次第に衰退することを余儀なくされた。 一方でバレエなどのロシアの伝統的な芸術は政府の後援の元高い水準を維持し、クラシック音楽でも、当局による制限を受けながらショスタコーヴィチらが作品を残し、ムラヴィンスキー率いるレニングラード・フィルハーモニー交響楽団などが名演奏を残している。 西側諸国で人気のあったロックンロールやヘヴィメタル、ジャズなどの音楽や、ハリウッド映画などの大衆文化は、「商業的で、退廃を招く幼稚なもの」として原則的に禁止され、わずかに北ヨーロッパ諸国や西ドイツなどのポピュラー音楽や、衛星国や日本、イタリアなどの芸術的要素の高い映画のみが上映を許されていた。また、外国のラジオ放送を傍受することも禁止されていた。 スポーツでは国の威信をかけた強化策がとられ、いわゆるステート・アマチュアと呼ばれる国家の選手育成プログラムによって育成させられた選手が、オリンピックで数多くの栄冠を手にしている。特にアイスホッケーやバレーボール、バスケットボール、ホッケーなどの強豪国として知られオリンピックのメダル獲得数で常にアメリカや東ドイツなどと首位を競う存在であった。しかし崩壊後にそれらの選手の多くが違法ドーピングなどによる薬漬け状態であったことが当事者の告白により明らかになった。 なお、共産主義というシステム上、全てのスポーツが国家の管理下におけるアマチュアスポーツであると言う位置づけであり、よって資本主義諸国のようなプロスポーツ及びプロ選手は存在しなかった。 冷戦下ということもあり、国の総力を挙げてオリンピックの成功を目指したものの、前年に行われたアフガニスタン侵攻に対する抗議という名目で、日本や西ドイツ、アメリカなどがボイコットを行い事実上失敗に終わった。しかし、これ以降ソビエト連邦の崩壊までの間夏期、冬季ともにオリンピックが再び行われることはなかった。 そして、次回1984年開催されたロサンゼルスオリンピックでは、1983年のアメリカ軍によるグレナダ侵攻への抗議という名目で、ソビエト連邦と東ドイツのメダル王国をはじめ、東側諸国の多くがボイコットした。 |
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