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ディックとは?/ アットローン

[ 342] フィリップ・K・ディック - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%BBK%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%AF

彼の人生は SF 作家としての評価とは裏腹に、経済的な問題、幾度かの離婚、薬物摂取など、決して順風満帆ではなかった。神経症の治療やその他の理由からアンフェタミンを常用した時期があり、自殺未遂を繰り返し、薬物中毒施設に入院した経験もある。1955年には彼の妻クレオ・アポストロリデエスが社会主義者だったことからFBIの取り調べを受けた(1959年に離婚)。
生前には商業的に成功した作家とはいえなかったディックだが、生前からSF評論家やマニアたちの評価は高く、死後はSFジャンルを超えて、高い評価がされた。
アメリカSFを前面批判した、ポーランドのSF作家スタニスワフ・レムは、唯一ディックを称賛し、「ペテン師に囲まれた幻視者」と彼を評している。
1963年 はじめて神秘体験する。「空を見上げると、スロットのような目をした巨大な顔が見下ろしていた。」それを邪悪な神と見たディックは、キリスト教に救いを求めようとする。
1972年 バンクーバーのワールドコンに、ゲスト・オブ・オナーとして招待される。ブリティッシュ・コロンビア大学での歓迎会で「アンドロイドと人間」という講演を行う。その後もバンクーバーに滞在。アパートで鎮静剤による自殺を図る。薬物・アルコール中毒患者のための施設でリハビリの後、帰国。
1975年 『戦争が終わり、世界の終わりが始まった』刊行(生前に発行された、唯一の非SF長編)。ロンドンで開催されたSFフェスティバルに招待されるが、病気で欠席。この大会でのスピーチ用に、神学に傾倒した『人間とアンドロイドと機械』を執筆。
1977年 フランスのメスで開催されたSFフェスティバルにゲスト・オブ・オナーとして招待され、神を見たと公言するスピーチを2時間に渡りしゃべり続ける。
日本語訳された作品のみ記す。末尾の年は原書の出版年。また1982年以降の作品は、死後に出版された作品であることを示す。(タイトルが複数あるものは括弧内に示した)
その後、小説としての完成度は低いが、ディック的な魅力がある作品を、ディック死後に訪れた再評価の波にものり、サンリオSF文庫が大量に翻訳刊行した。サンリオSF文庫の廃刊後は、ほとんどの作品がそのまま創元SF文庫に収録された。創元SF文庫はその後もディックの未訳の長編の翻訳を継続し、「全長編の刊行を目指す」と称していたが頓挫。
現在は、創元SF文庫で出ていた作品が、早川文庫で改訳されて出直すなども、起きている状況である(「暗闇のスキャナー」→「スキャナー・ダークリー」等)
『ユービック』がジャン=ピエール・ゴランによって映画化されるはずだったが。この企画は頓挫した。その後、ディック自らが書いたシナリオが出版された(『ユービック:スクリーンプレイ』)。
ブライアン・オールディスが『火星のタイムスリップ』の映画化をキューブリックに薦めていた時期があったという。[4]
^ 同じタイトルで集英社ワールドSFシリーズ、ちくま文庫および論創社から出版されているが、集英社版とその他で収録作品に差異あり

 

[ 343] ディック・ミネ - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%8D

ディック・ミネ(1908年10月5日 - 1991年6月10日)は徳島市出身の日本のジャズ・ブルースの歌手、俳優である。訳詞家・編曲家としては本名の三根 徳一(みね とくいち)を名乗り、第二次世界大戦中の敵性語規制の時代には三根 耕一(-こういち)、朝鮮半島では三 又悦(サム ウヨル)と名乗った。創成期のテイチクレコードの立役者で、トーキー以降の日活と同社が提携したミュージカル映画をはじめとして映画に多く出演し、その後純然たる俳優としても活躍した。
東京帝国大学卒の厳格な教育者を父に持ち、日光東照宮の宮司の娘を母に持つディック・ミネは、1908年(明治41年)10月5日、四国に生まれた。幼少期から、音楽好きだった母親の所有していた西洋音楽のレコードに興味を持つ。父親の転勤の影響で、新潟にも転居したこともあったが、上京後、立教大学に入学。在学中から軟派の気風が加わり、次第にダンスホールなどでジャズに傾倒。自らもバンドの一員となり、アルバイトで歌も歌っていた。また、当時としては珍しいスチールギターの演奏が出来たため、レコード会社各社でアルバイト演奏を行い、ミス・コロムビアの歌う『十九の春』の伴奏なども務めた。
同大学卒業後、父親の勧めで逓信省貯金局に就職したものの、ダンスホールのバンドメンバーに誘われ音楽で身を立てる決意をする。1934年(昭和9年)、タンゴ楽団「テット・モンパレス・タンゴ・アンサンブル」で歌手兼ドラマーとして活躍していたのを淡谷のり子に見出され、レコード歌手の道を歩むこととなる。同年創立されたテイチクレコードの重役だった作曲家・古賀政男の推薦で、同社で『ダイナ』をレコーディング。同曲では、自ら訳詞と編曲、演奏を担当。トランペッターとして南里文雄も参加し、片面にカップリングされた『黒い瞳』とともにテイチク創立以来の大ヒット曲となった。
古賀政男の勧めで、当時のいわゆる「流行歌」もレコーディングするようになる。映画女優・星玲子とのデュエット曲『二人は若い』をはじめとして、1935年(昭和10年)には『波止場がらす』、『ゆかりの唄』などをリリース、これらの大ヒットで従来の純日本調の歌手とは一線を画す、新たなファン層を取り込んで、一躍流行歌界の寵児となる。『愛の小窓』、『人生の並木路』、『旅姿三人男』と歌謡曲のヒットが続く一方で、『アイルランドの娘』、『林檎の木の下で』、『ラモナ』、『イタリーの庭』などの外国曲を日本語で歌い、戦前のジャズシーンを飾った功績は大きい。こうしたヒットの連続により、設立間もないテイチクは、ディック・ミネのほか、藤山一郎、楠木繁夫、美ち奴らドル箱スターを抱える大手レーベルの仲間入りを果たしたのである。
1935年5月以降、ミネは朝鮮半島の「オーケーレコード」から「三又悦」(サム・ウ・ヨル)名義で朝鮮語の歌を数曲発売している。当時日本領であった同地でもミネの人気は高く、彼自身朝鮮語がうまかったので「長い間朝鮮の人と間違われ白眼視された」と証言している[1]。
1938年(昭和13年)、ミネが中国大陸に演奏旅行中に、古賀政男が「日本の流行歌は日本の名前で歌った方がいいだろう」とミネの了解を得ずに、本名を一文字変えて「三根耕一」名義で『どうせ往くなら』、『旅姿三人男』などを発売。帰国したミネの抗議によって、また1939年(昭和14年)早々に古賀が退社したこともあり、同年「ディック・ミネ」名義に戻った。しかし1940年(昭和15年)、内務省からカタカナ名前や皇室に失礼に当たる芸名は改名を指示され、ミス・コロムビアや笠置シズ子、あきれたぼういず、藤原釜足らとともにディック・ミネもその対象となり、止む無く再度「三根耕一」と改名した。1941年(昭和16年)の第二次世界大戦勃発以降は、極端に活躍の場を奪われたミネは、外国人が多く居住した上海租界に活動の場を移し、日本と上海を行き来する生活が続いた。
戦後、ジャズの復活とともに流行歌の世界でも活躍を再開し、1947年(昭和22年)、水島道太郎と共演した松竹映画『地獄の顔』の主題歌『夜霧のブルース』、『長崎エレジー』がともに大ヒット。『雨の酒場で』、『火の接吻』などのヒットを続ける一方で、スクリーンやステージで活躍。演技もできる歌手として、力道山主演の『純情部隊』などに俳優として活躍。ミネ本人は「僕が時代劇に出るとバカ殿、現代劇ならヤクザ。こんな役しかこなかった」と語っているが、本人は満足していたようである。
1955年(昭和30年)以降も、フランク永井や、ミネが名づけ親となったのちの脚本家、当時歌手のジェームス三木など後輩の面倒見もよく、後に俳優として活躍した藤田まことや植木等らを育てている。テレビの登場とともに司会やコメンテーターとしても活躍、1965年(昭和40年)以降の「懐メロ」ブームには欠かせない存在となった。「日本歌手協会」の3代目の会長となった後も、「自分は好き放題やってきたから世の中のためになることをしたい」と「反核運動」にも参加する一面も見せた。1982年(昭和57年)には淡谷のり子とのデュエット楽曲『モダンエイジ』を発表し、「二人合わせて150歳のデュエット」と話題になった。
生涯で4人の妻を持ち、“伝説のギタリスト”と謳われる三男の三根信宏を始めとする10人の子を儲け、天下のプレイボーイとして知られたミネであったが、1985年(昭和60年)頃から次第に体調を崩すようになった。
「ディック・ミネ」の芸名は、ディック(英語で男性器のスラング)が非常に大きかったことからつけられたといわれる。カツラ愛用者でもあった。
満月城の歌合戦 1946年 監督マキノ正博、脚本八尋不二、作詞島田磬也、音楽仁木他喜雄・大久保徳二郎、主演小夜福子、共演藤山一郎、服部富子、田端義夫、日本橋きみ栄、ベティ稲田

 

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